楠クリーン村

山口県の山奥で

夏休みのインターンシップで2週間参加した青柳君の原稿です。山口に住む友人からの誘いで、埼玉から参加してくれました!

「山口県の山奥で、自給自足の暮らしを体験してきました。太陽とともに目覚める朝、夜は現地に暮らす職員の方々と酒盛りをしながら語り合う日々。新たな畑を耕し、鶏から卵をもらい、野菜や果物を加工することで毎日は過ぎていきました。日々頭上を照らす満点の星と、足元を照らす風呂焚きの炎とが、いつも心を満たしてくれました。」
夢のような暮らしだと思われただろうか。楠クリーン村で体験したことを一言でまとめれば、上のようなことになる。
しかし実際楠の暮らしで僕が得たものは、夢物語よりむしろはるかに地味な、地に足を着けるためのナニカだった。楠の日々を終えて東京に戻った僕は、夢よりもむしろ現実への危機感を持った。『突然山奥に暮らして、何を感じ取ったか。』これをテーマに14日間の就業体験を振り返っていく。

楠の一日は長い。朝は6時半から作業を開始し、掃除・家畜の世話・商品加工や開発・農作業と作業内容は多岐にわたる。僕含めインターン生はいずれかの作業に割り振られ、夕方、日が沈むまでスタッフとともに汗を流す。昼食も夕食も自炊で、持ち回りの担当が来るたび、とれたての野菜やコメを調理する。その間に同伴するスタッフは作業や都合によってその都度変わるが、その誰もが言葉で、あるいは姿で、本当にたくさんのことを語ってくれる。

 楠には5人のスタッフが常駐している。5人はそれぞれ、製造担当・農畜全般・商品開発・デザイン・営業・渉外等のように違う役割を持っている。つまり誰かが休みの日はその持ち場の作業は進まない。誰もがプロで、替えが利かない。替えが利かないところにはプライドが生まれる。それぞれが自分だけの知識や得意分野を持ち合わせていて、5人がチームとして日々、融通の利かない「自然」と向かい合っていた。

そんな楠の暮らしの中で一番に感じたのは、学校と仕事の現場にいる人との大きなギャップだった。なんてことはない、学生が社会に出て初めて出会う感情の定型文のようなもの。しかしインターンシップの後半はこのことばかり、狂ったように考えていた。「自分はまだ学生で、ここにいる人たちは大人で、自分のできないことが目の前に次々出てくる」。楠という特殊な環境で、外から見たら一見自由なライフスタイルを成立させる。そこに5人のスタッフの社会人としての力や根性を毎日たくさん感じて、考え込んだ。自分はいつの間にか学校という枠組みの中で甘えてたのだろうか。山を出て東京に帰ってもこのことばかり考えている、これは今回得た最も大きな学び。

もう一つ興味深かった瞬間は、毎日山や畑について沢山のことを教わっている内に訪れた。東京より学校より、ずっと頭が疲れる。毎日12時間働いてしんどいはずの身体はピンピンしているのに、頭の中身だけが整理をつけるのにエネルギーが必要で、ずっと疲れている。情報が多すぎる、とある日思った。電波も広告もない自然の中の暮らしが、毎日情報に溢れた東京で暮らすよりもずっとずっと情報過多だった。
それはまるで治安の悪い外国で歩く時の感覚に似ている。犯罪の対象にならないようこっそり歩く時、普段よりもずっと敏感になって情報を探す、というような。楠で言えば野菜の体調を察知するため、イノシシの侵入を防ぐため、卵を産む鶏の調子を把握するために。自然の中が、毎日スマートフォンを握っている生活よりもずっと情報に溢れていた。

本当はもっと色んなことを学んだはずなのに、インターンを終えて1週間が経った今、あまり多くのことを思い出せないでいる。自然の中の豊かさは簡単に忘れてしまえるのだ、これも大きな発見の1つだった。実は今回同時に楠へ行ったインターン生の、同じように楠の暮らしを終えて書いた原稿を読んで、初めて自然の中で暮らしたことを忘れてしまっていたことに気がついた。都会にいても楠のような豊かさを何か探せるだろうか―今はそんな視点で毎日を過ごしている。

立教大学 コミュニティ福祉学部スポーツウェルネス学科3年 
青柳龍宙