楠クリーン村

豊かさの途上で僕らは何を思う。

2月26日から3月6日にインターンシップに参加した、彦惣君の原稿が届きました!
楠クリーン村は、自分たち大学生とそう年の変わらない大人達が、新しい当たり前を追求している場所。自分たち人間の暮らしに本当に必要な物ってなんなんだろう?その問いに常に向き合い、それを世の中に還元しようとし続ける場所。
この場所に10日間インターンとして滞在し学んだことは大きく2つある。

 【↑左奥が原稿を書いてくれた、彦惣君】

一つ目は、生きることの実体。
僕のように都会で暮らしていると、生きることに実感が伴わないように思われる。それは、生きるためにしなくちゃいけないたくさんのことを、お金を払って他の人や機械にやってもらっているから、じゃないかと思う。料理すること、食べ物を手に入れること、風呂を炊くこと、火をつけること、明かりを手に入れること、、、挙げればきりがないけど、現代ではこれらを自分自身でやることはほとんどないし、この中には、楠クリーン村でさえできていないこともある。自分の一日の行動を振り返り、その全てを自分の手だけでやることを想像してみると、大変を通り越して不可能なんじゃないかとすら思える。現代っ子の僕は火の起こし方すらあやふやで、それは調理ができず寒さも凌げないことを意味し、最悪一日でコロンと死んじゃうかもしれない。大昔の人はこれら全てを1人で、もしくは家族や友達と協力してやっていた。自立していた。彼らにとって命は当たり前のものじゃなく、今日一日生き延びれるかもわからない、毎日がハラハラの連続で、生きることに必死だったんじゃないかな。
それでも僕ら人間は進歩して、どんどん生きることを簡単にしてきた。そうすると毎日に余白が生まれて、より進歩することができた。その途上に僕らはいる。
僕含め僕の周りの大学生達は、迷っている人がとても多い。迷い考えることができるのは、今までの進歩のおかげ。でも、毎日を必死に生きていた昔の人々と毎日に希望が持てない若者達のどっちが幸せなんだろう?とふと思ってしまう。今更、昔の生活に戻った方がいいとは思わない。でも、「生きることの大変さ」を知らずに、人生が楽だという前提で色々悩むのは贅沢だし甘ったれだなと思う。
若者達はみんな就活についてや自分の天職について、お金についてとか、色々なことに悩んでいるけれど、その狭い世界から目を上げてみると、人生は大変であり単純なんだって思えた。

 【↑じゃがいも畑になる予定の土地を、耕した】

二つ目は、自分を深く知ること。
楠クリーン村で暮らしている間、一緒に暮らす人たちと深く関わることができた。それは、ここで暮らす人たちが必死に生きているから、でもあり、「大学生」とか「男」とか「女」とか「年齢」とか普段当たり前に意識している枠が取り払われているから、でもあると思う。
楠クリーン村のスタッフ達、インターン生とたくさん話して、たくさんの言葉をもらった。彼らの分析は的確で、それは長時間を共に過ごしているからというだけではなく、日々自然と向き合い必死に生きているからこそ培われている感性や観察眼のおかげなんだろうなと思う。
僕は昔、映画評論家のおじさんから「自分1人で考え込んでいても自分はわからない。他人と話すことでわかっていくんじゃないかな」という言葉をもらった。その言葉の意味を初めて知れた10 日間だった。

東京大学経済学部2年彦惣裕太