11年前のこの日を忘れない

 こんにちは、奥谷です。今日は全国各地で3.11の追悼イベントや特集番組が組まれていますが、1年に1回、振り返ってその時の体験を共有するのもいいのではないでしょうか。例えば、インドネシアのバリ島ではニュピという日があり(今年は3月3日だったそうです)、この日は24時間飛行機が一切飛ばず、レストランも閉まり、銀行だけでなくATMも閉じており、身動きが取れなかった思い出があります。バリ島ヒンドゥーの新年を迎える時に、地元では家族がひとところに集まってキャンドルを灯して父親の話を聞くんだそうです。
 
 さて、私は2011年3月11日に何をしていたかというと、東京のオフィスで働いていました。オーストラリア人と約束をしていたのですが、前日に予定をキャンセルして、あの時間に東京駅に行かずに済みました。あれは虫の知らせだったのかな…。
 14時46分、ものすごい揺れが何回か起きてみんなが驚き、外に出てみると、近くの高層ビルが目視で横に揺れているのがわかるほどでした。その後両親から携帯電話に連絡があり、今日は家に戻らずに事務所に泊まったほうがいいと助言をもらい、それに従いました。足元には福井のお米、第3世界ショップのカレーの壺、冷蔵庫にも野菜もあり、あとは鶏肉だけ買えば人数分のカレーは作れるとわかって、すぐさま近所のお肉屋さんに走りました。そして電車が止まって家に帰れないスタッフと一緒にカレーを食べて、一夜を過ごしました。あの日の夜に普段は人通りが少ない道路にヘルメットをかぶったサラリーマンが花火大会の帰りのようにぞろぞろ歩いている異様な光景を今でもはっきり覚えています。

 12日土曜日の始発から電車が動き始めたので、私も朝6時に家に戻って、テレビで何が起きたのかを見守っていました。次の月曜日から出社しなくても実家に戻ってリモートで仕事をしてもOKと連絡が入り、私は日曜日に実家の大阪へ移動しました。そこから東北へ物資の支援プロジェクトにかかわったり、社内メーリングリストで何か応援できるかと話し合っていた時に、第3世界ショップで販売しているアルパカのセーターで着古したものを集め、その糸をほどいて被災地の皆さんに編みなおして商品づくりができないかと提案しました。これがソーシャルニットワークプロジェクトの始まりです。
 
 編み物は東北の人たちには身近でもあったし、道具もそんな必要なく、一人でもおしゃべりをしながら集会場でもできるということで場所も選ばず、生きがいづくりという点で意味があったかなと振り返ります。祖母が得意だったので幼い時から糸をほどいて編み直している姿をいつも見ていました。その体験がヒントになりました。岩手や福島で被災地の皆さんと一緒に編み物を始めて以来、今でも私も編み物を時々やっています。数年前に北摂で起きた大地震の時にたまたま関西空港の孤島に閉じ込められ、みんながパニックになっているときに、たまたま道具を持っていたので私は心穏やかに編みながら電車が動くのを待ったり、病気で入院した時に写真のようなポンチョを作ってみたり、私の人生にも大きく関わっています。無心になって何か物を作る、これが作ってみたいという目標があることが、不安を解消して前向きな気持ちにしてくれます。編み物にはそんな力があるんですよね。