楠クリーン村代表 高田夏実
自給やセルフビルドをすることは楽しく、生きがいでもある。また環境負荷が少なく、持続可能な選択をしやすくなるという身軽さを得ることになり、生きる力も格段にアップする。それは危機への備えにもなる。そういうことは、たいていどこでも言われることである。
これ以外にも、自給やセルフビルドをすることによる”棚からぼたもち”が存在することに気付いた。
それは所有感を持つことの幸せだ。
5月に息子の初節句で家族が集まった際に、うちの前に濡れ縁を作った。木の雰囲気が出るからと、ペンキなどの石油系塗料ではなく柿渋を塗った。
妹は「絶対、この美しい柿渋の色を持続させてほしい!1ヶ月もしたら白茶けるから1ヶ月に1回は塗り直してね!」と何度も何度も念押しして帰っていった。
【↑テラスが完成した際の家族写真】
あっという間に1ヶ月が経過し、有言実行できずに派手に白茶けてしまったのだが、その後柿渋を塗り直し、色合いが復活した濡れ縁を見てなんとも愛しい気持ちになった。またあっという間に1ヶ月が経ちそうだが、何度も塗り直して大切にしようと心に誓った。
自分たちで作ったものって、何ともいいものだ。
【↑塗りなおすとこれだけ色が変わる。猫の足跡はご愛嬌】
こういう感覚を、日本の郊外育った私は持たずに生きてきた。地域にも、そこに住む人にも、そこで作られたものにも愛を感じず(何が作られているかも、知らない)、ほとんどすべてのことが他人事だった。だからこそ楠の手作り感に魅了されて、今の仕事と暮らしの場に選んだ。
所有することは突き詰めると争いを生む一面もあるけれど、所有感がないというのは愛情がないということと紙一重で、それはそれで破滅的なことではないか。愛情がないと粗末に扱われがちだ。愛情があれば壊れないように使うし、壊れても直そうという気持ちが起きる。使わなくなったら、大切に使ってくれる人に渡したいという考えが生まれる。
今、現代に欠けている精神はこういうところなのかもしれない、と柿渋を塗りなおしながら考えた。私は、楠に来てから幸せな所有感を沢山得たし、今もその過程にいる。無関心・無所有感だった自分のうろこを一枚一枚はがしていくような、気の遠くなるような日々ではあるが、着実に人間らしい人生に近づいている感覚がある。
【↑生まれ変わったテラスで夕食】
昨年、宇部市の街中と中山間地(楠クリーン村のあるエリア)で地域活性のためのワークショップが開催された。ファシリテーターを務めた山口大学の先生は「街中よりも圧倒的に楠エリアの熱量が高かった」と言っていて、それはそうだろうなと思ったが、それも「ここは自分たちの地域である」という所有感が大きく関わっているのだろう。そういう感覚の有無は、留まることのないエネルギー浪費や見直しの欠如、大量生産・大量廃棄と無関係ではないはずだ。だから、自給やセルフビルドは冒頭に書いたような意義を持ちながら、所有感や愛情を育むというとても大切な役割を持っているのではないかと思った。
そんなことを考えながら手を動かしていたら、無事、我が家の濡れ縁が蘇った。やっぱり、この色、いいな~。